一昔前、「日本人論」というのが流行りましたが、ちょうどそれに関して何年か前に書いたものがあったので、転載しようと思います。何かと評判の悪い「レポート再録シリーズ」ですがお暇な方はどうぞ。
日本人論の走りとして有名なのは、内村鑑三氏の『代表的日本人』でしょう。これは氏が選出した5人の日本人の生涯をもとに、日本人の精神性、倫理観などを説き明かそうとするものです。1960年の高度成長期以降、日本人自身の手による多数の「日本人論」が議論されてきたわけですが、その最たるものが、中根千枝氏の『タテ社会の人間関係』です。ものすごく簡単に言いますと、「場」を強調し、ウチとソトを強烈に意識する日本の社会構造について述べているわけですが、この本の最大の特徴は「日本人が日本人を『構造的に』分析した」という点であり、有名な日本人論の古典・ルース・ベネディクト氏の『菊と刀』とは一線を画するところであると言えます。また、これには続編として『タテ社会の力学』があり、集団の社会的規制が法規制の役割をも果たしていることを説いています。そして土居健郎氏の『甘えの構造』は、精神分析的なアプローチで日本人の民族意識である「甘え」を説明した点が特徴的です。これらは日本人の特異性を強調している点で、アメリカをモデルとした近代化理論に対する強烈なアンチテーゼであるように思えます。
80年代に入り、日本が高度経済成長を成功させると、調子のいいことに欧米の方からも、日本人を見習ってみようかという風潮が現れました。エズラ・F・ヴォーゲル氏の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』などはその一例でしょう。
さて、それまでこうした日本人論を担ってきたのは知識人や異文化の翻訳者、または政治的・商業的な対外機能を必要とする政治化や企業でした。しかし、この時期になって、日本人論を相対化する論調も見られるようになります。ハルミ・ベフ氏による『増補イデオロギーとしての日本人論』では、海外との接触と生活の洋式化による民族的アイデンティティーの喪失が日本人論を生み出したものと解釈しています。また、杉本良夫氏は『日本人論の方程式』で、日本人論のいくつかの論型に焦点を当て、日本人が「日本人論」に対外的、対内的機能を持たせ、「手段」として扱っていると論じています。
高度経済成長が終わり、バブル崩壊後になるとカレル・ヴァン・ウォルフレン氏による『なぜ日本人は日本を愛せないか』で日本人論に対する消極的な論説が説かれ、また野口悠紀雄氏は『21世紀・日本経済はよみがえるか』の中で、日本の経済再復興の見通し等を書いています。
しかし、もともと「・・・人論」という類のものが近代の国民国家成立以降にできた概念でありますし、国際化・グローバル化・情報化の進行する社会では、「・・・人」という枠組みの規定すら曖昧になっている有様で、実際に「民族」、「人種」といったカテゴライズそのものの見直し、またはそこからの脱却が図られているのです。
ただ、近年はグローバル化への反発から各国でナショナル・アイデンティティ復興の機運が高まっているのは確かでして、有名な精神科医の香山リカ氏も、『ぷちナショナリズム症候群―若者たちのニッポン主義』で、現在の若者の間に蔓延する『ニッポン至上主義』を批判しています。 最も、日本が好きだと思うこと自体をひとつの罪悪であるかのようにとらえている著者の論調には賛成しかねるものがあります。もちろん、それだけではなく、藤原 正彦氏の『国家の品格』、中西 輝政氏の『日本人としてこれだけは知っておきたいこと』等、日本人が本来持っていた日本人らしさを取り戻そうという、ナショナル・アイデンティティの啓蒙書も多数出版されています。
まあ全然関係ないんですが、私自身も香港へ来て、かえってナショナル・アイデンティティが明確になってきたような気がします。言葉も通じない国に来て、「あなたは誰ですか」と聞かれたときに、「私は○○だ」と答えるための強固な地盤が欲しいわけです。ここ香港で「私」が何者であるかを最も簡単に証明するための記号が「日本人」であるということなのです。