Archive for the '香港の歴史' Category

香港地名考 -香港-

水曜日, 4月 11th, 2007

KINGKONGはキングキングなのに、HONGKONGはなぜホングコングじゃないのだろうか・・・という疑問は、香港ファンならば一度は立ち止まって考察するものと思います。なんだかよく知りませんが広東語の発音から来ているからじゃないでしょうか。”ng”のgはキングコングのgみたいにはっきり発音するんじゃなくて、鼻の奥にすこーしだけ抜けるような感じだったと思います。(多分)

ゴリラの話はともかく、香港が歴史の表舞台に登場してくるのはアヘン戦争以降、1842年の南京条約によって香港島がイギリスに割譲されてからということは周知の事実ですが、じゃあこれ以前の香港はどうだったかと言いますと、特に目新しいものもない漁村であったと伝えられています。

香港という名前についても色々あり、「香る港」の意味そのままに、香港島一帯は昔、香木を輸出していたんだという説もあれば、甘い香りのするおいしい水が湧き出ていて船乗りさんたちの咽喉を潤していたからだという逸話もあります。香港の有名な霊能者でUFO研究家でもある雲海氏などはその著書の前書きで『香港の”香”とは”死”の隠語である。つまり香港とは死の港という意味なのだ!』・・・と言っていたりして、解釈次第で色々な説が生まれそうです。

しかしどれもこれも言い伝えの域を出ないようで、本当のところは未だ不明というのもまた事実のようです。でもまあ、世界中どこでも地名なんてそんなもんでしょうね。

香港地名考 -九龍(カオルーン)-

金曜日, 3月 30th, 2007

『香港』という名前の由来についてはどこかで書きましたが、では九龍はどうかと言いますと、こちらも諸説あって「これだ!」・・・というものは未だないようです。

最も有名な故事は、モンゴルの元軍に追われた南宋の幼い皇帝が現在の九龍半島一帯に逃れてきた際、八つの山脈を見て「八つの山に一匹ずつ龍が住んでいるから、ここを『八龍』と名づけよう」と言ったところ、傍に居た家臣が「中国では皇帝も龍の化身とされていますから、それをいうなら九龍ですよ」・・・と何気なく進言した結果、「おっグッドアイデアじゃん!それ採用!」となり、かの地は九龍と名づけられたのでした。めでたしめでたし・・・というもの。でもまあ個人的には、八龍より九龍の方がカッコいいと思います。もし八龍を英語読みにしたらパールーンとかになっていたのでしょうが、どうも響きが良くありません。

しかし・・・・
この幼い皇帝は最期、元軍に追い詰められて海に身を投げてしまいます。霊能者であり、UFO研究家である雲海氏に言わせると、「九龍」の命名故事も、結局は皇帝の自殺に由来する悲しい言い伝えじゃないかということなのですが、言われてみれば確かにその通りなのかもしれません。

九龍には他にも龍みたいな兄弟が9人居たとか、風水で言うところの龍脈が9つあるだとか色々ありますが、中国語の「9」には「永遠、永久」という意味があるので、龍が永遠に留まって繁栄する土地である・・・と解釈することもできそうです。

日本語の読みですと通常「クーロン」となりますが、これは「九」は日本語読みの「くー」、そして龍は中国語読み「ロン」の和製英語ならぬ和製広東語ということになります。この「九龍」という地名を「クーロン」と読むことに抵抗をいだいている香港マニアは意外と多いようで、「読むなら『がうろん』とか、『カオルーン』と読んで欲しい!」という願いが根深いところにあるようです。まあ確かに、香港人にクーロンといっても、日本語のわかる人以外は「?」という感じなので、現地では言っても無駄かもしれませんが、まあいいんじゃないでしょうか。

ちなみに・・・・・・・

もうすでにバレバレだとは思いますが、カオルーン(KOWLOON)というのは「九龍」の英語読みになります。しかしこれも広東語読みを適当に英語っぽくしたわけではなく、「九」の広東語読み「kow」と、「龍」の客家語読み「loong」が混じった挙句、最後のgがいつの間にかとれてしまい、その結果、「カオルーン」と呼ばれるようになったそうで、実はこれも「クーロン」と似たような経緯で作られた合成語なんですね。そう思うと昔の香港人もイギリス人に対して「カオルーンなんて変な呼び方すんなよ!」・・・と思っていたのかもしれません。

香港島(HongKong Island)

金曜日, 3月 23rd, 2007

九龍半島の対岸に有る島…といってしまうとミもフタもないですが、「九龍に比べて高級そうな場所」というイメージで持って語られることの多いこの場所。まあ、確かに中環とか金鐘あたりは基本的にビジネス街ですから、見るものはあまりないかな・・・という気はいたします。ただし、以前の総督府とか、聖ヨハネ教会など、歴史的に重要な建物もあることはあるので油断はできません。

ちなみに、香港島と九龍を頻繁に行ったり来たりするのは、仕事をしている会社員や観光客くらい。一般的には、例えば香港島に住んでいるなら、『こちら側には売ってないアレが欲しいコレが見たい』・・・といった用がなければわざわざ九龍まで出かけたりしませんし、逆もまた然りです。九龍側、特に新界の人間ともなれば用事がなければ香港島の方には月に1、2回しか行かないとか、そういう感じだそうです。実際に住んでみた私も、その意見に心から賛同してしまったのですが、地下鉄や海底トンネルがあるとはいえ地続きではないので、やはりそれなりに面倒くさいのです。

しかし、このヴィクトリア港。 使用済みの生理用ナプキンが捨てられていたりして汚いことこの上なく、飛び込んだら身体が一瞬で毒されてしまいそうな勢いですが、もともとの土地が狭い香港では、当たり前のように埋め立てに次ぐ埋め立てを重ねていますので、『いつの日か、九龍と香港島はくっついてしまうんじゃないか』・・・と囁かれているほどです。そうはさせじと、『ヴィクトリア港の景観を守れ!』なんて叫ばれるくらいですから、あながち噂だけではないのかもしれません。

中環や湾仔には、ものすごく高いビルがたくさんありますが、香港には体感できる震度の地震などは滅多に起こらないため、日本では多少無理のあるようなビルを建てまくったり、いい加減やめたほうが良さそうな古いビルでも平気で増築したりします。 しかし、さすがに1999年の台湾の大地震以来、香港人も少しは防災意識に目覚めたということですが、あくまでも『多少』の話。大多数の香港人民にとっては、地震とは縁の薄いものなのでした・・・。

九龍寨城(がうろんせんちゃいKowloon Walled City)

木曜日, 3月 22nd, 2007

九龍寨城(がうろんせんちゃいKowloon Walled City)

今はなき九龍寨城・・・・・英語では「Kowloon Walled City」、日本では「九龍城砦(クーロンじょうさい)」と表記されたりします。当の香港人は一般的に「九龍城寨(がうろんせんちゃい)」と言っていますが、正式につけられた名称は「九龍寨城(がうろんちゃいせん)」のようです。本来は清朝の役人が出入りしていた、海賊討伐のための砦だったのですが、中国と英国の両方にほったらかしにされ、そのあとも日本軍に城壁を取り壊されたりとしているうちに、いろんな人が住みついてごちゃごちゃになってしまいました・・・という、これまた数奇な運命を辿った建築物です。

ここはちょうど、九龍を割譲するときに定めた界限街(新界と九龍半島の境界線となるストリート)の延長上に存在した場所だったため、管理はどこにまかせるべきか、かなり英中間でもめたそうです。中国でも英国でも、かといって香港でもなかったことから、余計な税金等がかからず家賃が安かったといいます。「三不管」(台湾の国民政府、中国政府、香港政庁の3つのいずれも管理ができないという意味です。さん・ばっ・ぐんと読みます)の場所と呼ばれ、地元では「一度入ったら二度と生きて出てこられない」「ヤクザの本拠地がある」、「ヤク中のヤツらばかり住んでる、恐ろしいとこ」だの「巨大なスラム」、「ゴキブリ、ネズミとクソでいっぱい」・・・などなど、そこまで言うかと思うほど、とんでもなくひどい言われ方をしていたのですが、外国人には今でもなぜかファンが多く、いまどきの言葉でいうところのリスペクトをする者が後を絶たないのでした。

そういえば、まだこの城塞が在った頃(20年以上前)の「地球の歩き方」を見てみたら、「城塞の周辺では、決して写真を取ったりしないこと。どんなインネンをつけられるか、わからないからだ。撮るなら遠くから撮り、カメラはすばやくしまってしまおう」、などと書かれていました。・・・といいつつも、ルポライターのひとりは「昼間なら絶対に安全」と書き、またもうひとりのライターは、「入らない方がいいですよ」なーんて書いていますから、やはり、当時の城塞に対するイメージはかなりいい加減だったことがわかります。『香港通信』の編集長を務めたことで知られ、ご自身もかつては九龍寨城に住んでいたこともあるという香港マニアのカリスマ・吉田一郎氏もいろいろな雑誌で「そんなに怖いところじゃなかったよ」、とフォローしておられましたが、多分他の香港の場末とそんなに変わらなかったのでしょう。

日本人や外国人が書いた書籍は、どうしても感傷的・同情的になりやすく、城砦に対するイメージも幻想的なものになりやすいようですが、香港の書籍などはわりと淡々と、城砦の歴史とその遍歴を著述しています。まあ、夢を壊すようで申し訳ないのですが、実際は、中国からの移民が細々と日々の暮らしを営んでいた、香港に何処でもあるような普通の雑居ビルだったようです。ただ、その土地としての位置付けが、アヘン戦争やら第二次世界大戦やらでもめているうちに、政治的に不安定な区域となってしまったため、法律的に言えば確かに「空間」「白紙」と言える場所であったわけです。「香港多層都市」の著者村松伸氏も、「九龍城砦と同じようなビルなら香港にたくさんあるが、ひとつの場所にあそこまで集中していたことに意味がある」、というようなことを、著作の中でおっしゃっています。

もちろん、香港人に城塞について熱く語ったとしても、大抵は「そうですか」とか、「あんな怖いところがなんでいいの?」など、ふーん、別にどうでもいいや、興味ないよ~、みたいなつまらない返事が返ってくることが多いです。もっとも、建築や芸術関係の人であればまた違った反応をくれるかもしれませんが、あまり数が多くないことは確か。

そういえばあの維他命小説の主人公フタナリカオルーン君は昔この城砦に住んでいました・・・という設定だった気がしますが、なにしろ作者本人も足を踏み入れたことの無い場所ですからね・・・。あまり深く突っ込まないよう、適当に書き流していたのであります。ボワワァーン(銅鑼の音)

香港市区文化之旅

水曜日, 3月 7th, 2007
普通の香港観光はお腹いっぱい、もしくはつまらないと叫びだしたいあなた様におすすめの一冊が、2001年に萬里機構有限出版公司から発行された『香港市区文化之旅』(88香港ドル)というガイドブックです。これには香港と九龍の名所旧跡があますところなく紹介されておりまして、なんと周辺地図と交通機関、さらには所要時間までが綿密に記載されているという優れもの。そして驚くべきことに、日本語版も発売されております。

香港は他の都市に比べて歴史的建造物が乏しいなどと言われていますが、そんなことは決してありません。日本軍がらみのものからイギリスがらみのものまで色々です。中には『地下公衆便所の跡地』とか『公衆浴場跡地』いう変なのもあるのですが、そうしたところを見に行くのもまた一興ではないでしょうか。

商務印書館などの大きな本屋さんの『香港』や『旅遊』の棚をあさればたいてい置いてあると思いますので、「普通の観光地はもう飽きた」、もしくは「初めての訪港だがちょっとマニアックな場所を観てみたい」というひねくれたお方は是非どうぞ。

しかし一点だけご注意を。

こうした名所旧跡の中には、人気のない場所に建物の残骸がぽつんと佇んでいるようなものも結構あります。外務省の海外危険情報のページにも書いてあったことですが、最近はハイキングコースなどの市街地から離れた場所において、香港人・日本人に関係なく、脅されて金品を強奪されるという事件が多発しているそうです。中には縛られて数十時間も放置されていたケースもあるそうですから、厄介事を回避するためにも、できればそれなりの人数で行きましょう。

中華人民共和国香港特別行政区 『香港』

金曜日, 2月 2nd, 2007

「香港」・・・・・つまり現在でいうところの「中華人民共和国香港特別行政区」とはあの悪名高きアヘン戦争、イギリスにとっても永遠の不名誉と言われる戦争によって当該国に割譲された場所です。それまでの香港は本当に小さな漁港だったと言われていますし、住民も「九龍村」などといった小さな村々に分かれて客家人などがほそぼそと暮らしていました。

アヘン戦争の頃は、現在の尖沙咀付近にもアヘンを積んだ船がうろろうしていたそうで、当時の清の皇帝・道光帝(満州族の人です。1782~1850)が、世界史の教科書ででてきたあの有名人、林則徐を香港にも派遣させました。ちなみに道光帝は、1820~1850年のあいだ、清の皇帝を務めます。 またこの時分は、九龍城砦も砲台を持つ砦として使われていました。

しかし、清は1839年から勃発したアヘン戦争に敗れてしまいます。 その結果、1842年の南京条約の締結において、香港島(ホンコン)の割譲が正式に受諾されました。そして約2年後の1860年、英国は北京協定により九龍半島(カオルーン)を割譲しました。さらに1898年6月、北京条約において九龍の界隈街(バウンダリーストリート)以北、つまり現在新界(ニューテリトリー)と呼ばれている地域が租借地となることが決定しました。ちなみに香港ではありませんが、威海衛も同時に植民地として編入されました。

植民地としての香港の軌跡については、すでに先人によって多くの研究がなされています。特に経済的・政治的分野からのアプローチは多岐にわたり、ここで一概に述べることは難しいものですが、中嶋嶺雄先生や、可児弘明先生といった香港研究の第一人者が、多くの著作を出しておられます。もっとも、専門家の大方の意見としては、香港返還の次は「台湾統一」という中国の願いがあったと言われています。中国共産党の最終目的は台湾統一であり、香港返還はその布石であったというところです。確かに、「一国二制度」というのは、将来に望むべき、台湾統一を念頭に置いたところからきた考えであったことは間違いありません。

1997年の香港返還の前後には、その将来の展望について、まったく異なる二つの意見が出されていたものでした。 ひとつは、「香港は中国の共産党支配とその経済圏の傘下に組み込まれ、 中国の他の都市と変わらぬ街となるだろう」というもので、もうひとつが「香港の経済力は中国を巻き込んで資本主義化を促進し、その結果、華南経済圏がますます盛んになることだろう」というものでした。

まーでもいろんなところでいわれているとおり、香港にはあまり政治的なポリシーのない人が多いようで、景気が良ければ中国になびくし、ダメになったらけなすということでこれまたご都合主義といいますか、日和見主義といいますか、とにかくそのあたりはあたかも『ソフランS』のごとく柔軟性に富んでいます。